なんとかなくコントみたいに人生は過ぎていっているんだけれども、というふうに思ったほうがいいんじゃないかなというふうに
2010年6月1日放送 NHK総合 爆笑問題のニッポンの教養
記憶にほえろ!
法心理学 高木光太郎さん
相手に自分の言うことが信じてもらえないことに対して、我々以外に慣れてないんですよ。例えば、本当ですかというふうに問い続けたら、ぶちっと切れて、なんだこの野郎と殴りかかるか、もういいよといっちゃうか、ということですよね。だけど取調室って、両方できない。身に覚えのないことを全く信じてもらえないで聞かれ続ける。しかも、逮捕する段階では、警察官というのは、こいつが犯人だと信じていますから、基本的には揺らがないわけですよ。そうすると、前提が違うんですよね。やったという前提と、やっていないという前提で、これは実は会話であって、会話じゃないんです。やってないことがわかっていて、落ちてしまう話を伺うと、その直前前後覚えていないといいますよね。頭の中が真っ白になっている。だから、ここでは駄目だけれども、この人たちはおかしいから、次、裁判で。これは人間って、直近の危機のほうが。先送りなんですよ。
僕たちが伝えたいのは、今の捜査とか、裁判の仕組みの中で、一番忘れられているのは、実は当事者目線なんですね。例えば、ここにいた人にとって、世界がどう開けているかということに対して、恐ろしく無頓着なんですよ。
実際に人生を駄目にされちゃうという悲劇の部分を除いて、会話だけ見ると、コントに近いんですね。何を言っても、全部ボケられちゃって、全然まともな突っ込みが交わされちゃう。噛み合っていない面白さというのを漫才とか強調するじゃないですか。それに凄く似ているんですよ。噛み合わなさの塊みたいな感じで。コントなんかでも、全然違うことだと思い込んでいる人とそうじゃないと思い込んでいる人がそのことをお互い知らずに面白いことを起こしちゃう。
噛み合わないから面白いこととか、いいことが起こるということがあるし、噛み合わないからものすごい悲劇が起こったりとか、人生大なしになったりすることが起こる。でも、我々はかみ合うと思っているけど、噛み合わないことのほうが結構多くて、それで、なんとかなくコントみたいに人生は過ぎていっているんだけれども、というふうに思ったほうがいいんじゃないかなというふうに。
« 日本の世論は家柄がいいとか、そういう人が好きなんですよ。そういうことだけで決めちゃうと、人気が良かったりすると、こういうことになっちゃうよと | トップページ | 言い換えれば、横ばいレンジが続いているという、こういう見方でいいんじゃないでしょうかね »
「爆笑問題のニッポンの教養」カテゴリの記事
- 常識的なところをいかに枠組みを外して、できないかもしれない予感、怯えというか、どうしても先読みして先を占ってしまう気持ちをいかにぱっとなくすか(2011.11.12)
- 色が本質を表すというか、色によって本質を表わそうというように私たちは思っていますよ(2011.11.07)
- 彼らが、ああいう暇な人たちがいるからこそ中国の社会って安定しているんですよ。逆に彼らが暴れた時というのは危ないんですよ(2011.10.28)
- 言葉でコミニュケーションして動いているロボットができたからと言って、考えるロボットを作りましたとはなかなか言えないですね(2010.10.29)
- 一人になった方が居心地がいいということになるんだけれども、落語の世界って、逆なんで、人と繋がっていなと幸せでない世界なんですよね(2010.10.01)
この記事へのコメントは終了しました。
« 日本の世論は家柄がいいとか、そういう人が好きなんですよ。そういうことだけで決めちゃうと、人気が良かったりすると、こういうことになっちゃうよと | トップページ | 言い換えれば、横ばいレンジが続いているという、こういう見方でいいんじゃないでしょうかね »
コメント