2010年10月21日放送 NHK総合 ブラタモリ 新宿 水道編
飲み水の確保、これは徳川家康が江戸幕府をひらいたときからの大問題でした。当時の江戸は江戸城のすぐ近くまで海岸線が迫り、葦が生い茂る湿地帯。海を埋め立てて作った場所では、井戸を掘っても出てくるのは塩水ばかり。そこで、家康は小石川や井の頭池など近くの水源を利用した神田上水を整備しました。しかし、参勤交代が確立し、多くの大名や家臣が江戸に住むようになると江戸の人口は爆発的に増加。神田上水だけでは水が足りなくなってしまったのです。困った幕府は4代将軍、家綱の時代、遥か43キロも先の多摩川から江戸市内に水を引き込むことにします。これが玉川上水。指揮を執ったという玉川兄弟の卓越した土木技術でこの壮大なプロジェクトが完成しました。
江戸時代、ここは四谷大木戸と言われる江戸の西の出入り口でした。ここから四谷側が江戸市内。新宿は場末と言われた江戸の外だったのです。四谷大木戸にあった水番屋。江戸に入る水の安全をチェックしていました。そしてなんとここから水は地下に潜っていったのです。驚くことに江戸の地下には石や木で作られた水道管が網の目のように張り巡らされていました。その総延長は150キロにもなり、当時、世界一の水道施設だったと言われています。江戸時代の水道管は都内のあちこちで発掘されるんだそうです。でも、次々にビルが建つので、なかなか一般の人の目に触れることはありません。木の水道管、木樋。主に檜製で、水漏れしないほど精巧に作られています。石で作られたメインの水道管、石樋、現在、神田上水に使われていた石樋が本郷の公園に保存されています。幅、高さともに1.5メートルもある頑丈な作り。こんな太い水道管が江戸の地下を走っていました。
高層ビルの立ち並ぶ広い一角はかつて巨大な浄水場だったのです。昭和40年ごろの写真を見ると、水をろ過するための広大な池が並んでいます。建設のきっかけは明治19年のこれらの大流行でした。伝染病の蔓延を食い止めるために、水をろ過、殺菌する本格的な浄水場が作られたのです。水道管も鉄のものに替え、水には圧力をかけて、火災の消火にも使えるようにしました。
立体的に作られた町そのものが浄水場の構造を受け継いでいたのです。硬い地盤を活かして、池の底からビルを立てて、下の道を作り、もともと地表だったところに上の道を作ったのです。まさに街全体が池の痕跡。
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